第53回「競争と切磋琢磨」 2015年6月11日

最近の安倍政権の経済政策の中心には、「競争」という概念が居座っています。
競争とは、「competition」という言葉が明治時代に欧米から入ってきた際に造られた造語です。

といいますか、competitionの翻訳を「競争」と定めたわけでございます。
ちなみに、competitionを競争と翻訳したのは、福沢諭吉です。
福沢諭吉が江戸幕府の勘定方に依頼され、経済書の目録を翻訳した際に、
competitionに該当する和語が存在しなかったため、
「競い争う」という案を出し「競争」と名付けたのです。

幕府の役人は、「競争」という言葉について、
「ここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない」
と指摘したのですが、それに対し福沢は、
「どんなことッて、これは何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、
隣で物を安く売ると言えば此方の店ではソレよりも安くしよう、また
甲の商人が品物を宜くすると言えば、乙はそれよりも一層宜くして
客を呼ぼうとこういうので、またある金貸が利息を下げれば、
隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀るというようなことで、互いに
競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利も決まる、
これを名づけて競争というのでござる」

と解説し、幕府役人は、
「なるほど、そうか。西洋の流儀はキツイものだね」
との感想を述べたとのことです。

福沢の「競争」に関する説明は、確かにもっともなのですが、
本来の「competition」という言葉には「勝ち負けをはっきりつける」という意味が
内包されています。人々を「勝者」と「敗者」に区分けするわけで、なかなか厳しい話です。

福沢はもちろん、それを理解していたからこそ、competitionに競「争」という、
キツイ印象を与える漢字を充てたのではないかと想像しています。

問題は、日本国民が「勝ち負けをはっきりつけ、
人々を勝ち組と負け組に分ける」という意味で「競争」という言葉を使っているかどうかです。
江戸幕府の役人のように、「人々が争うというのは、穏やかではない」と
感じる日本国民が、ほとんどなのではないでしょうか。

とはいえ、日本国民は「競争」あるいは「市場競争」という言葉を使うことを好みます。
実のところ、日本国民は、学問や人徳をよりいっそう磨き上げること、あるいは
仲間同士が互いに励まし合い、競い、共に向上していくこと、すなわち、

「切磋琢磨」
という意味で「競争」という単語を用いていると思えるのです。

ここまで来ると、文化、伝統、そして「ニュアンス」の問題になってしまいますが、
日本国民は本当に「国民同士で争い、自分が勝ち組になり、
他の国民(同胞)を負け組とする」競争を望むのでしょうか。

それはもちろん、そういう人もいるでしょうが、大多数は違うと思うのです。

例えば、経営者が自社の組織や社員が「競い争い、勝ち組と負け組に分かれること」を望みますか?
皆が努力し、競うのは当然として、「敗者」を作ろうとまでは思わないはずです。

まあ、一部の企業は組織や社員を「競争」させ、敗者は「解雇」という
外資系的な経営スタイルになってきているかもしれませんが、少なくとも
企業の多数派は異なるでしょう。何しろ、「同じ社員」なのです。

というわけで、安倍政権の経済政策の中心には、競争ではなく
「同じ日本国民が切磋琢磨する」が置かれるべきだと思うのですが、
皆さんはどのように思われたでしょうか。

今週も最後までお読み頂き、ありがとうございました。

コメント数:6

  • 確かに、切磋琢磨という意味での競争はとても大事だとおもいます。競争をさせない平等意識は旧ソ連や共産圏では結局は
    密告やワイロがはびこり、人民の心は向上心が失われていったのでないでしょうか。問題は勝者は謙虚になって、さらに上を目指し向上していこうとする心が大事だし、敗者に対しての思いやり、心配りがあればより良い社会に発展してゆけるとおもうのですが。

                   きりんさん

  • クレハ・キール

    三橋先生は、大阪都構想を戦略の一部として考えてられなかのですか?それは
    手段なのです。分かりませんか?独裁は「一時的に」必要なときもあります。
    大阪の「背後にある」、やくざ、部落などの「巨大な力」を知らないようですね。
    また、私は若者の感性を信じます。定義とか理論それも大事でしょうが、
    ときには、弁証法(言葉遊び)も無力であることがあることを・。
    ちなみにプラトンのイデアは、プラトン自身の中で揺れているのですよ。
    「正しいもの」「そのコピー」「またそのコピー=シミュラークル」つまり
    オリジナルから独立したもの。理論はいいですが、「自分の知らない」現実
    に規制の理論を適用することの無意味さを語ってらしゃったのは先生自身ですよね。
    少し「天狗」になっておられますか?己の学問を超専門えて他の領域
    (プラトンや橋下氏の今闘っている現場)
    橋下氏が「誰と」戦っているかご存知ですか?

  • compete の語源をお調べになった結果「競争」よりは「切磋琢磨」の方に近いとの事ですが、私もOEDで調べたところ、その方が正しいと思ひました。英語で済みませんが、語源のフランス語の peter(ペテール)の意味は to aim at, try to reach, seek=目指す、到達しようとする ですから con=together と合はせれば 共にある目的のために努力するという意味になります。が、OEDに出てくる最初の意味はto enter into or be put in rivalry with 或は to vie with another in any respectと為ってゐますから「競争」の意味が入つて来てゐるやうです。

  • 第53回「競争と切磋琢磨」についてコメントします。
     安倍政権の経済政策の中心には、競争ではなく
    「同じ日本国民が切磋琢磨する」が置かれるべきだと思うのですが、これはあくまで理想でしかありません!
    私は元銀行マンですが、銀行という組織の中で複雑で厄介な人間関係では勝者は気に入らない敗者をどこまでも追い詰めて自殺まで追い込んでいくか、解雇まで持って行くのが業界の常識となっています。敗者を思いやる仲間意識等一切ありませんし。切磋琢磨とは詭弁でしかないのです。三橋さんは考えが甘いのでは?

    • 元銀行マンさんの経験からすると、ひどい競争社会を身を持って体感されたようですね。
      しかし私は、安倍総理が日本社会全体に対し、その状態を望んでいるとはとても思っていませんでした。私の考えが甘かったんでしょうか。
      日本という国の中で、勝者のみが生き残っていくと、敗者はどうしなくてはいけないのですか?死、あるのみなのでしょうか。
      会社などの組織からのリタイアは不可能なことではないですが、国という大きな枠組からの離脱というのは、ほぼ不可能なことでしょう。特に、勝者こそ国外への脱出などが可能な選択肢であって、国の中での競争の結果、敗者となった者には、そこから脱出などできません。
      例えば国が進める、自治体間の競争の結果、敗者となった自治体が、独立して他の国を立ち上げたり、日本から離脱して他の国の一部になる、などという選択肢は、通常与えられてはないはずです。
      それと同様に、国民一人一人を敗者と勝者とに振り分けるつもりで、安倍総理は「競争」というものを推し進めているのではなく、活発な「切磋琢磨」の精神によって共存共栄を目指していくことこそを意味しているのではないか、という三橋氏の解釈の仕方の方が、しっかり当てはまっているのだと感じました。

      しかし、実際には勝者が敗者を蹴落とすような闘いが常に繰り広げられているわけで、
      (詭弁とまでは言いたくないですが)現実的ではない、甘い理想論を掲げているのは安倍総理だと言えそうです。

  • こんにちは。
    教育学や心理学をかじり、現場経験もした私にとって、「切磋琢磨」と「弱肉強食」は左翼系教育関係者が混同して使用していた情けない言語として認識しております。
    「切磋琢磨」は右派≒保守系の方がよくつかわれる言葉ですね。
    それに対して、「弱肉強食」や「勝ち組・負け組」は左派≒日教組の使う言葉です。
    (教育関係者は保守系も含めて自ら認識していませんが、彼らは世間を知らない「困ったちゃん」です。途中採用がほとんどない公立小中学校などは98%くらい当てはまります)
    その言葉に秘められた「思い込み」は相当激しいもので、「切磋琢磨」は大分理想論が希望的観測として入っており、目の前の脱落者への救済をおろそかにしがちです。
    それに対し「弱肉強食」、これを競争と混同しているのが、いわゆる左翼系の先生です。

    実は、この先生に育てられた子供たちが、現在の働き手の主流なのです。
    ですから、現在の日本人の大半は「競争」=「弱肉強食」と捉えている、といっても過言ではないと考えてしまいます。皆様のように、ご自身で情報を収集・分析する姿勢をお持ちの方は、そんなに多くはないのが現状です。
    つまり、大多数の現代の日本人の頭には「競争」は悪である、というバイアスがかかるのが当たり前なのです。
    以上、お騒がせいたしました。

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